案内士の道:ケンペルの日本誌(5)

千夜一夜

画像は淀大橋・孫橋(『拾遺都名所図会』巻之四「前朱雀」、1787年)の部分である。ケンペルが淀を通過した1691年から約100年後に描かれた淀周辺の景観。出典:国際日本文化研究センター「平安京都名所図会データベース」。

前回のケンペルの日本誌(4)では、長崎の出島に赴任していたケンペルが、どのようなルートで江戸参府を行ったのか大きな視点で『日本誌』の該当ページを紹介しました。

本来ならまず長崎から近畿地方までの旅日記を読んでいくべきでしょう。しかし、今回はそこをスキップして、大阪から京都までの比較的短いながらも話題が満載の部分を先に紹介します。ブログ筆者の身勝手をお許しください。ただし、今回も十分にお楽しみいただける内容のはずです。出典はこの連載の(2)に記載してあります。

案内士の道:ケンペルの日本誌(2)
ケンペルたちオランダ商館の一行が江戸に向かった旅を「江戸参内」と言うが、これは日本史上の用語であり、当時ケンペルたちはこの参内を総じて「Journey(旅)」と表現していた。ただし、この旅の趣旨が単なる観光旅行ではなく、極めて厳粛かつ厳重な…

大阪出発

今回紹介するのは、ケンペルによる『大阪から京都までの旅の記録』である。内容はケンペルの『日本誌』の該当箇所をほぼ全文紹介しながら、訳出する上で留意した点を追記したものである。

1691年2月27日(火曜日)

旅の準備がまだすべて整っていなかったので、我々は馬40頭・人足41人を雇った。この人数については通詞たちと激しく言い争った。彼らは、さらに多くの人足を雇わせようとしたのである。

実際のところ、もっとずっと少ない人数でも十分に用は足りたはずである。ところが、我々の盗人同然の通詞たちが、自分たちの荷物をかなりの量、我々の荷物であるかのように装い、我々の費用で運ばせていたのである。

午後、我々は年長の主席通詞を町奉行のもとへ遣わし、我々に代わって別れの挨拶をさせるとともに、先の謁見の際に約束されていた通行手形を交付してもらうよう願い出た。

通行手形はただちに交付され、通詞は、我々に道中の無事を祈る旨を伝えるよう命じられた。

さらっと書かれているが、日本に強い関心を示していたケンペルが珍しく日本の通詞を「盗賊同然」と非難している部分は注目に値する。当時の日本側の通詞たちは、以前の記事でも紹介した通り、江戸参府の足回りや資材の調達を任されていた。

2月28日(水曜日)

我々は夜明けとともに京都(Miaco)へ向けて旅立った。その日のうちに京都へ到着するつもりだったからである。

大阪から京都まではわずか13里で、十分に一日で旅することのできる距離であった。すなわち、大阪からSuda(佐太か)まで3里、そこから枚方(Firacatta)まで2里、淀(Jodo)まで3里、さらにそこから伏見(Fusimi)を経て京都まで5里である。
(この旅程については、大阪からの街道を描いた Fig.117 の一部を参照されたい。)

大阪を出ると、我々は当地で「京橋(Kiobas)」と呼ばれている橋、すなわち京都へ向かう橋を渡った。この橋は大阪城のすぐ下流で川に架けられている。

そこから我々は、およそ1里にわたって泥深い水田地帯を進んだ。淀川(Jodogawa)の岸に沿って築かれた低い堤防の上を馬で進み、川は我々の左手にあった。

同じく左手には、大阪を出てからおよそ半里にわたって家々が点々と建っているのが見えた。これらは大阪の郊外に属する家々であった。我々はそのまま淀川の岸に沿って旅を続けた。

川沿いには、Tsadanil という木が非常にたくさん植えられていた。この木は、この国では、我々の国の樫の木ほどの高さにまで成長する。その木は、灰色でごつごつした樹皮をしている。この時は冬であったため葉をつけていなかったが、枝には黄色い実がたくさんなっており、土地の人々はその実から油を作っている。

ケンペルが書き残した大阪から京都までの「京街道」の地図。文中では Fig. 117としている。この絵はFig. 117の右上をカットして拡大したものである。

この部分は、Fig.117 と照合するとケンペルの経路がかなり明瞭になる。

Osacca(大阪)→ Kiobas(京橋)→ Suda (佐太)→ Firacatta(枚方)→ Jodo(淀)→ Fusimi(伏見)→ Miaco(京都)

という経路。

Suda は、位置関係から現在の守口市佐太付近と考えられる。

もう一つ興味深いのが Kiobas である。これはほぼ間違いなく「京橋(Kyōbashi)」。ケンペル自身が、”or Bridge to Miaco” つまり「京都へ向かう橋」と説明しています。大阪城のすぐ下流で川を渡り、その後は淀川を左手に見ながら堤防上を進んだ、という記述なので、彼が大阪城下を出て京都方面へ向かった最初の行程をかなり具体的に確認できる。

そして最後の Tsadanil Trees は、記載された特徴からセンダン(栴檀)を指す可能性が考えられるが、同定にはなお検討の余地がある。

距離の「里」については、原文の Japanese mile の翻訳だが、ケンペルが用いた単位と近代以降の1里=約3.93kmを機械的に掛け合わせると実際の大阪―京都間の距離と合わない場合がある。ここでの『里』は、あくまで当時の街道里程である。

枚方宿から淀へ

ここから、いよいよ『大阪の都市描写』から『淀川沿いの京都への旅』へと場面が切り替わる。オレンジの枠内の文章はブログの筆者による訳註。

このあたりは驚くほど人口が多く、街道沿いには数多くの村が互いにきわめて近接している。そのため、大阪から京都(Miaco)まで、あとわずかで一続きの街路になってしまうほどである。

主だった大きな村には、いずれも少なくとも200軒ほどの家があり、Immitz、守口(Morigutz)、佐太(Sadda)、出口(Defudsj)などがある。守口(Morigutz)では、最も上質の「Cinnamon」が作られている。

ここでいう Cinnamon が何を指すのかは不明である。原文には確かに “Cinnamon” とあるが、守口の特産品として何を指しているのかは、さらに検討が必要である。

その次が枚方(Firakatta)で、500軒近い家からなる。大阪からわずか5里の距離にあり、我々は午前9時半過ぎにここへ到着した。ここで30分ほど休み、食事をとった。

この村には旅籠、茶店、酒屋(Sacki-houses)が非常に多く、わずかな金を払えば、いつでも温かい食べ物を口にすることができる。(訳注:江戸時代の京街道(大坂街道)の宿場町である枚方宿)

これらの旅籠や飲食店はすぐに見分けることができる。顔に濃い化粧を施した女たちが戸口に立ち、道行く旅人たちに声をかけて、中へ入るよう呼び込みをしているからである。

原文はかなり露骨な表現である。単なる「若い女性」というより、客引きをする女性というニュアンスがある。

ここから川の向こう側、そこには小大名の居城である白い城が見えた。ケンペルはその名をFacatzukiと記している。遠くから眺めるその城は、たいへん見事な姿をしていた。

位置関係から高槻城と考えられる。

食事を終えて再び旅を続け、200軒ほどの家からなるFatzuma、300軒ほどの家からなる橋本(Fasimotto)という村々を通り、小さな町である淀(Jodo)へ到着した。橋本(Fasimotto)もまた、多数の旅籠と遊女屋(Bawdy-houses)があることで目立つ場所である。

興味深いことに、ケンペルはすでに1691年の橋本に多数の『Bawdy-houses』があったと記録している。後世、橋本は遊廓で知られるようになるが、両者の歴史的な連続性については別途検討が必要である。

小さいながらも名高い淀の町は、周囲を完全に水に囲まれている。さらに町の中にもいくつもの水路が通されており、それらはすべて町を取り囲む川の支流から水を引いている。

郊外は一本の長い街路からなっており、我々はそこを通り抜けて、「淀大橋(Jodo Obas)」と呼ばれる壮麗な木橋へ出た。

この橋は長さ400歩で、40の橋脚間によって支えられている。それに対応して同じ数の欄干の柱があり、その上端には真鍮の飾り金具が取り付けられていた。全体として、ひときわ見事な姿をした橋である。

淀大橋・孫橋(『拾遺都名所図会』巻之四「前朱雀」、1787年)。ケンペルが淀を通過した1691年から約100年後に描かれた淀周辺の景観。出典:国際日本文化研究センター「平安京都名所図会データベース」

淀大橋

橋のたもとには、厳重に警備された門が一つあり、我々はそこを通って町へ入った。

淀の町そのものは非常に美しく、心地よい場所にあり、立派な家々が建っている。街路の数こそ少ないものの、南へ走る道と東へ走る道とが互いに直角に交差している。淀には多くの職人や手工業者が住んでいる。

町の西側には城があり、川の中に煉瓦造りで築かれている。その四隅と城壁の中央部には、それぞれ数階建ての壮麗な櫓がそびえており、それらが城全体にたいへん堂々として美しい姿を与えている。城の前面は堅固な煉瓦造りの城壁で囲まれており、その城壁は町の中へ深く延びている。この城はFondaisionoという大名の居城である。

淀城(よどじょう)は、山城国久世郡淀(京都府京都市伏見区淀本町)にあった日本の城。現在は本丸の石垣と堀の一部が残っている。なお、ケンペルが淀を通過した1691年(元禄4年)の淀藩主は、6万石の石川主殿頭憲之(石川憲之)であった。ケンペルが “Prince Fondaisiono” と記した人物は、当時の淀藩主・石川主殿頭憲之を指すと考えられるが、“Fondaisiono” という表記がどのように生じたかは、検討を要する。なお、ケンペルは城の構造を “brick” と表現しているが、日本の煉瓦建築を意味するとは考えにくく、石垣や塗籠の構造を指した可能性がある。

淀を出ると、我々は再び橋を渡った。この橋は長さ200歩で、20の橋脚間によって支えられていた。橋を渡ると別の郊外へ入り、その端には堅固な番所が設けられていた。

我々の右手、川の向こう側には、日本中に名高い宇治(Udsij)の村、あるいは城壁を持たない小さな町があった。ただし、我々のいる場所からは見えなかった。

宇治は、最高級の茶を生産することで日本全国に知られている。この茶は並外れて品質が良いため、特別に栽培され、将軍自身が用いるため江戸へ送られている。

それからおよそ2時間馬を進め、午後2時に伏見(Fusimi、またはFusijmi)へ到着した。

大阪→守口→佐太→出口→枚方→Fatzuma→橋本→淀→伏見→京都という一日の行程が、街道沿いの集落の密集ぶりまで含めて、かなり生々しく伝わってきます。特に「大阪から京都まで、ほとんど一続きの街路のようだった」というケンペルの驚きは、元禄期の京街道沿いに集落が非常に密集していたことを伝える印象的な記述です。

現在の京街道

ケンペルが移動した道は、現在も有名な「京街道」に他ならないが、彼の著作にはそのような呼び名は一切出てこない。ネット環境で「京街道」を調べると、全ては幕末から明治時代の情報ばかりで、ケンペルが江戸参府に参加した元禄(江戸時代前半)の京街道の記事は見当たらない。ケンペルの手記はそれだけ古く、価値が高い。

出典:『江戸宿場データセット』(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター作成)https://geoshape.ex.nii.ac.jp/edo/post/R600/

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

次回は伏見から始めて、いよいよ京都へ入ります。


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