案内士の道:ケンペルの日本誌(2)

千夜一夜

ケンペルたちオランダ商館の一行が江戸に向かった旅を「江戸参内」と言うが、これは日本史上の用語であり、当時ケンペルたちはこの参内を総じて「Journey(旅)」と表現していた。ただし、この旅の趣旨が単なる観光旅行ではなく、極めて厳粛かつ厳重な監視体制のなかで実行されていたことはケンペルも十分認識していたことがわかる。

江戸参内の準備について、前回に続き『日本誌』から詳しく紹介する。引用部分の出典は以下の通りである。

  • “The history of Japan, together with a description of the kingdom of Siam, 1690-92, Volume 2”
  • by Kaempfer, Engelbert, 1651-1716; (原作)
  • Scheuhzer, John Gaspar, 1702-1729, (英語への翻訳)
  • Publisher : Glasgow, J. MacLehose and sons 
  • Contributor : Princeton Theological Seminary Library 
The history of Japan, together with a description of the kingdom of Siam, 1690-92 : Kaempfer, Engelbert, 1651-1716 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
The original illustrations have been here reproduced

要人たちへの貢物

Chapter I., Preparations for our Journey, with a Description of the manner of travelling in this Country.

我々の旅の準備は、次のような事柄から成っている。

何よりもまず最初にしなければならないのは、将軍閣下、その側近の顧問官たち、ならびにJedo(江戸)、Miako(京都)、Osacca(大阪)にいるその他何人かの高官たちに贈るのにふさわしい品々を選び出すことである。それらの総額がおおよそ一定の金額になるように品物を取りそろえ、分類し、とりわけ、それぞれの品を誰に贈るのかを決めておかなければならない。

その後、それらは革袋に詰められる。その革袋は、江戸参内の長い旅の途中で起こりうるあらゆる事故から中身を守るため、注意深く莚(むしろ)で包まれ、さらに安全を期して、いくつもの封印が施される。

どのような品物なら将軍の宮廷に受け入れられるかを判断し、決定するのは、長崎の奉行たちの役目である。彼らは、我々(オランダ商館)の倉庫に保管されている商品から適当と思われるものを選び出し、さらに、翌年バタビア(オランダ植民地時代のジャカルタ)からどのような品物を送ってくるべきかについて、任期を終えて出発する商館長に指示を与えるのである。

時には、彼ら自身が中国人から贈られた品物の一部が、これらの献上品の中に加えられることもある。そうすることによって彼らは、それらの品を有利に処分できるからである。つまり、我々(オランダ東インド会社)に法外な「言い値」でそれらを買わせるか、あるいは別の商品と交換するのである。

時折、自然の産物であれ人工の品であれ、将軍に献上することを目的として、珍しい品々が、ヨーロッパや世界の他の地域から運ばれてくる。ただし、そうした品々が、この厳格な検査役たちの承認を得られないこともしばしばである。たとえば私の滞在中、最新の発明による真鍮製の消防ポンプが二台運ばれてきたことがあった。しかし奉行たちは、それを将軍に献上するのは適当ではないと判断した。そして、まず実際に作動するところを見たうえで、その型を取ってから、我々に返却してきた。また別の時には、cassowary(ヒクイドリ)がバタビアから送られてきた。しかしこれも気に入られず、将軍の御前に出される栄誉を与えられなかった。というのも、(彼らが聞いたところによれば)その鳥は大量の食物を食べ尽くす以外には何の役にも立たないからである。

source : Wikipedia

こうして献上品を選び、その準備を整えるために時間が費やされた後、選ばれた品々は必要な食糧とともに一艘の艀に積み込まれる。そして我々が出発する三、四週間前に、水路で下関へ送られる。下関は、大きな島であるNipon(訳註:日本。ただしここでは本州を指す)の端に位置する小さな町であり、そこで品々は、陸路を進んでくる我々の到着を待つのである。

かつては、我々の使節も、その随行員全員とともに同じ時に船に乗り、水路でそこへ向かった。この方法であれば、現在我々が陸路を旅するために負担しなければならない多大な労苦と費用を省くことができた。しかし、ある時、激しい嵐によって一行全員が重大な危険にさらされたことがあり、また逆風のため航海がひどく長引き、とても退屈なものになることがしばしばあった。そのため将軍は、その後の我々の参内は陸路で行くように、と命じたのである。

将軍への献上品を下関まで運ぶこの艀は、この目的だけのために、会社の費用によって長崎の港に常備されているものであり、それ以外のいかなる目的にも使用することはできない。

こうして、将軍の宮廷への献上品とその他の重い荷物が我々より先に送り出されると、出発までの残りの時間は旅のための大がかりな準備に費やされる。その様子は、まるで我々が世界の遥か彼方へ向かう一大遠征を計画しているかのようだった。

江戸参内の構成員

江戸参内の準備で最も優先度の高い仕事は、我々(出島のオランダ商館の代表)とともに Court(幕府)へ赴く役人および従者を指名し、適切な指示を与えることである。長崎奉行は、その配下のYorikis(与力)、すなわち第一級の武官のうち一名をBugio(道中奉行)、すなわち最高指揮官として任命する。彼は主君の権威を代表する者であり、その象徴として(旅の行列において)本人の背後に槍が担がれる。Doshin(同心)、すなわち下級の武官は、副官として道中奉行を補助するよう命じられる。与力も同心も、その年長崎に在任している奉行の配下の者から選ばれる。これらに加えて、Tsioosin(原文では town-messengers と説明される役人)が二名加えられる。

奉行と大名の違い

長崎奉行は主に1,000石〜2,000石程度の上級旗本(諸大夫・従五位下)から任命された。対して、大村藩(約3万石)や平戸藩(約6万石)、島原藩(約4万石)などの藩主は大名(万石以上)であり、家柄・石高・格付けといった純粋な武家社会の身分階層としては大名の方が格上だった。一方、長崎奉行は「将軍の威光」を直に背負う老中直属の遠国奉行(幕府直轄地の長)であり、有事の際には西国大名へ指図・動員する権限を持っていたため、九州の諸大名は長崎奉行に挨拶に訪れるなど、実質的には大名側が敬意を払う関係性にあった。

与力・同心は諸藩の大名の家臣ではなく、幕府が直接雇用している幕臣(旗本や御家人)である。 江戸にある奉行所と同様、長崎奉行の配下として幕府から派遣(または長崎奉行が抱え役として任用)されていた。福岡藩や佐賀藩などの近隣大名は長崎の警備を担当していたが、奉行の直属部下である与力・同心を大名家臣から輩出することはなかった。

つまり、江戸参内に随行した与力・同心は、長崎周辺の諸藩から差し出された家臣ではなく、長崎奉行の配下に属する役人だったのである。

ケンペルはこれらの随行役人をJoriki(与力)、Dosin(同心)と記している。ただし、元禄期の長崎奉行所の職制については時期による変遷があり、これらが当時の正式な職名としての与力・同心と完全に対応するかについては、さらに検討を要する。

町使 と 同心 の双方は、その職務の権限によって縄(捕縄)を携帯しており、与力 からの命令や合図一つで、何らかの軽罪を犯した者、あるいはその疑いのある者を誰であれ逮捕・拘束することができる。これらの者はみな軍人とみなされており、それゆえ二本の刀を帯びる特権を有している。彼らが Samurai(侍)と呼ばれるのはそのためであり、 Samurai (侍)とは2本の刀を帯びた者、あるいは兵士を意味する。

生まれながら貴族でも軍職でもない民衆は、当時の Imperial edict(諸法度)によって、この特権を禁じられていた。

オランダ通詞について

前の巻でも考察したが、我々の通訳は2組に分かれており、上組(高級)は8名の主任通訳からなり、それ以外は下組に含まれていた。各組の当直の頭取であるNinban(年番)は、(当然ながら)我々に同行することになっている。これら2名の年番に加え、最近は見習いとして3人目が加えられており、彼らには後継者としての資質をつけさせるため、また将来同じような機会にどのように振る舞うべきかを、適切な経験を通じて早いうちに示しておくために連れて行かれる。

すべての主要な役人や重役は、自分の身の回りの世話をさせるため、あるいは威儀(いぎ)を正すために数人の従者を連れて行く。Bugio(道中奉行)、すなわち最高指揮官と筆頭通訳は自分が望むだけの人数を連れ、その他の役人はそれぞれの能力や職務上の必要に応じて2〜3名を連れて行く。オランダ人のカピタンすなわちオランダ大使は3名連れて行くことができ、彼のお供をするすべてのオランダの役職には1名の従者が許されている。

通訳は通常自分たちの「お気に入り」を雇うよう我々に薦めてくるが、彼らがオランダ語に疎ければ疎いほど、彼らにとっては都合がよい。奉行や通詞の命令(あるいは特別な許可)で同行する従者の中には、本来我々とはまったく関係がないにもかかわらず、我々の費用で旅をしていた。

これまで述べてきた旅の同行者たちは全員、出発の少し前に親睦を目的としてDejima(出島)を訪れる機会が設けられ、あらかじめ我々と少しでも親しくなるようにしている。彼らの中には、出発前の厳粛な誓約がなければ、そしてそれ以上に他人に裏切られる恐怖がなければ、もっと我々に対して自由に心を開きたいと望む者が多くいる。というのも、同じ誓約の縛りによって、彼らは全員、オランダに対してだけでなく、特にオランダとの関係における日本人同士の行動に対しても、厳しく警戒の目を光らせる義務があるからである。

訳註:江戸時代の長崎通詞(通訳)組織では、幹部である「大通詞」や「小通詞」が交代で事務やオランダ人への対応を指揮する「年番(ねんばん)」あるいは「月番(つきばん)」という制度(当番制)があった。ケンペルが音訳した Ninbanは、この『年番』を音写したものと思われる。

オランダ商館とは無関係の人間が「従者」として含まれていた事実は、当時の日本側の役人が東インド会社の経費で自分の自由になる従者を連れていたことになる。この先の記述を読み進めながら確認したい点であり、違和感が残る。

最後までご覧いただきありがとうございます。

なお、ケンペルがJoriki、Dosinと記した役職と、元禄期の長崎奉行所における正式な職制との対応については、なお検討の余地があります。本稿では原文の表記に従って便宜上『与力』『同心』としています。

次回は、江戸参内に無くてはならなかった馬と馬具の話に続きます。

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