ドボルザークの弦楽曲(打ち込み)

偉人鉄人超人

冒頭の画像は wikipedia に掲載されたパブリックドメインの情報を転載しました。

作曲家の死後70年が経過した楽曲を自分なりにアレンジしたスコアにして、それを打ち込みのDTMプレーヤーで公開するのは、対象となる楽曲がパブリックドメイン (public domain) であるため『合法』とされています。つまり、作者の没後70年が経過した作品には「著作権」は失効しているのです。

筆者「無録」が敬愛する作曲家であるアントニン・ドヴォルザークが他界したのは1904年(この記事を書いている2024年の120年前)ですから、彼の作品の著作権は失効しています。同時に、ドヴォルザークの作品は全て public domain にあるものです。

彼の作品では、交響曲の「新世界」があまりにも有名なので、「新世界」以外には何も作品がないような印象がありますが、実はこの作曲家は実に多くの美しく技巧的な音楽を残しています。その全ての背景と内容を体験するとなると、一人の個人がその半生をかけて鑑賞するぐらいの内容があります。もちろん筆者が知っている作品はごくごく一部でしかありません。

今回の話題はドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ短調 作品22」です。

4つの楽章があり、第一楽章の Moderato の冒頭の部分は日本のメディアでもよく使われるので、旋律を聴いたことがある方がほとんどだと思います。

それぞれの楽章が過剰に長くなく、それでいて短くもないので、クラシック音楽としてはお手軽に鑑賞できる作品です。SNSにも数々の名演がアップロードされているので、作業用BGMとして静かに流すのがおすすめです。

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楽曲について

チャイコフスキーやエルガーの弦楽セレナードと合わせて「三大弦楽セレナード」の一つとして数えられる本作は、ドヴォルザークが33歳だった1875年5月に11日間という短い期間で一気に書き上げられたと伝えられています。この時期のドヴォルザークは、新婚で、しかもブラームスから高い評価を得てオーストリアの国家レベルの奨学金を得て順風満帆の若手作曲家になりたてです。非常に自信に満ちていて淀みのないのびのびした作品と言えます。画像はウィキペディアに掲載されている 1870年ごろの作者の肖像です。

英語圏で、しばしば serenade for strings in E major というタイトルで紹介されているとおり、この曲はストリングスを楽しむための作品。

この記事で紹介するのは、第四楽章の Larghetto(ラルゲット)ですが、このラルゲットという聞き慣れない単語は、イタリア語の「Largo(ラルゴ)よりやや速く」という意味の音楽用語です。(速度記号)

筆者が知る限り、世界に星の数ほどある弦楽曲の作品で最も心地よく聴こえる作品のひとつ。

高音域と低音域のバランスや、強いフォルテと静かなピアノの雰囲気をうまく交互に使って聴く人の感情を揺り動かします。この音源は筆者がMuseScoreで打ち込んだものです。

短いテーマを交互に使った構造はバッハのように巧みです。同じテーマが第五楽章でも使われています。

この楽章では、特にビオラのパートがとても巧みに表現されていて興味深いのですが、これはドヴォルザークのビオラ奏者としての経験が生かされています。

ドヴォルザーク

英語版ウィキペディアから概要を抜粋します。

アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841年9月8日 – 1904年5月1日)は、チェコの作曲家。ドヴォルザークの作風は「民族的な表現を交響曲の伝統と完全に融合させ、民俗的な影響を取り入れ、それを効果的に活用する方法を見出したもの」と評され、作曲家としてのドヴォルザークは当時「最も多才な作曲家」と形容されていたようです。

幼少期から音楽の才能を発揮し、優れたバイオリンの生徒でした。彼の作品が初めて公に演奏されたのは1872年のプラハで、特に成功を収めたのは1873年、彼が31歳の時でした。交響曲やその他の作品をドイツやオーストリアのコンクールに提出し、1874年に審査員だったヨハネス・ブラームスに評価されています。1877年、同地域での3度目の受賞後、楽譜の高い売り上げと批評家からの好評価により、国際的な成功を収めました。

1883年のロンドンでの「スターバト・マーテル」の演奏は、イギリス、アメリカ、そして1890年3月にはロシアでの多くの公演につながりました。第7交響曲は1885年にロンドン向けに作曲されました。

1892年、ニューヨークのアメリカ国立音楽院の院長に就任。アメリカ滞在中に2つの最も成功した管弦楽作品、交響曲「新世界」と、チェロ協奏曲の中で最も高く評価される「チェロ協奏曲」を作曲。さらに、1893年の夏、アイオワ州スピルビルでの休暇中に、彼の最も有名な室内楽作品である「弦楽四重奏曲第12番ヘ短調『アメリカ』作品96」を作曲。

しかし、数年間音楽院に留まったものの、給与削減やホームシックが原因で、1895年にボヘミアへ戻ることになりました。

ドヴォルザークのオペラ10作のうち、最初の作品を除くすべてはチェコ語の台本で、チェコの国民的精神を伝えることを意図しました。特に成功したオペラは、1901年に初演された「ルサルカ」です。小品の中では、第7曲「ユーモレスク」や歌曲「母が教えてくれた歌」も広く演奏され、録音されています。

ドヴォルザークの生涯と作品を記念して毎年開催される「ドヴォルザーク・プラハ国際音楽祭」は広く知られています。。

ドヴォルザークの署名(Wikipediaより)

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

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