冒頭は京都の南にある伏見の街を見物して歩く東インド会社の江戸参府チームの想像図。(ケンペルの著作を翻訳知ったChat GPTが作図したもの)
ケンペルが書き残した京都訪問の記録を紹介する。体験記はまず伏見から始まる。この日は日本人のいう「ついたち」、すなわち月の第一日で、街道には休日を楽しむ多くの人々が繰り出し、ケンペルは着飾った女性たちや、風変わりな姿の物乞い、芸人などを目にする。丘の寺院には灯火がともり、僧侶たちが鐘を打ち鳴らす音が遠くまで響いていた。一行はこうした賑わいの中を進み、夕刻、ついに京都へ入る。
しかし、京都に到着したケンペル一行には、まず果たさなければならない重要な儀礼があった。京都における江戸幕府の最高責任者である「京都所司代」と、京都の市政を担う二人の「京都町奉行」に到着を届け出て、恒例の献上品を送り届け、儀礼的な挨拶回りを行うのである。その描写からは、当時の幕府役人との面会がどのような作法で行われていたのかを垣間見ることができる。
ケンペルが京都を訪れた1691年(元禄4年)は、徳川家光の時代までにみられた武断政治から大きく様相を変え、幕藩体制が安定期に入っていた時代である。今回登場する京都所司代や町奉行も、歴史の教科書に登場するような著名人ではなく、人物を詳しく伝える資料も決して多くない。しかし、むしろそのことが今回の記録を興味深いものにしている。
そして、こうした政治的・社会的な安定があったからこそ、長崎のオランダ商館員による江戸参府も、毎年のような恒例行事として組織的に行うことができたのであろう。資料の少ない時代だからこそ、ケンペルの体験談には大きな価値がある。今回は、その目を通して元禄の京都を歩いてみたい。
伏見へ
伏見は城壁を持たない小さな町、というよりむしろ村で、わずか数本の街路からなっている。幅の方が長さより広いような街路もあれば、かなり長く延びるものもあり、また町の右手、すなわち東側にある木々に覆われた丘へ向かって延びている道もある。
前述の川から分かれたいくつかの小さな支流が、この町の中やその周辺を流れている。
伏見の中央を通る主要な街路は、そのまま京都まで延び、しかも日本の宗教上の君主である天皇が住む都、京都の街路と途切れることなくつながっている。
そのため伏見は、京都の郊外と呼んでもよいほどである。まして京都には町全体を囲む城壁がまったくなく、そのまま田野(でんや)へ開いているので、なおさらそのように見えるのである。
この日は日本人のいう「ついたち」(Tsitats)、すなわち旧暦の月の第一日であった。日本人はこの日を、我々のいう日曜日あるいは祝日のように過ごし、寺院へ参詣したり、野外へ散策に出たり、さまざまな娯楽を楽しんだりする。
そのため、我々が進んだこの長い街路には、京都の住民たちが大勢繰り出していた。彼らは町を出て外気を楽しみ、近隣の寺院へ参詣するために出かけていたのである。
我々が宿に到着するまで、このような人々で混雑した長い街路を、実に4時間にもわたって進まなければならなかった。
とりわけ女性たちは、この日に合わせて華やかに着飾っていた。京都の流行に従って、さまざまな色の着物をまとい、額には紫色の絹布をつけ、日差しを避けるために大きな笠をかぶっていた。
訳註:ここでケンペルは、旧暦の朔日(ついたち)に寺社参詣や行楽に出かける人々の様子を、ヨーロッパ人に馴染みのある「日曜日あるいは祝日」にたとえて説明している。
物乞いと寺院
我々はまた、風変わりな身なりをした何種類もの物乞いたちにも出会った。滑稽な服装をした者や、ひどく奇妙な仮面をかぶった者もいた。鉄製の高足に乗って歩く者も少なくなく、大きな鉢に植えた青々とした木を頭の上に載せて運んでいる者もいた。
歌を歌う者、口笛を吹く者、笛を吹く者、そして鐘を打ち鳴らす者もいた。

街路に沿っては、開け放たれた店が数多く並び、曲芸師や芸人たちが群衆を楽しませているのを目にした。
我々が道を進んでいくと、右手には近くの緑に覆われた丘の斜面に寺院が建っていた。それらの寺院には数多くの灯火がともされており、僧侶たちが鉄の槌で鐘を打ち鳴らしていた。その音はかなり遠くからでも聞こえるほどの大きな響きであった。
訳注:原文は “bells, with iron hammers” とある。ただし、日本の寺院の梵鐘は通常、鉄槌ではなく木製の撞木で撞く。ケンペルが梵鐘の撞木を鉄製と見誤ったのか、あるいは梵鐘とは異なる種類の鐘・鳴り物を指しているのかは不明である。
また左手には、きれいに飾られた堂、あるいは小さな寺院があり、その祭壇の上に大きな白い犬が置かれているのに気がついた。おそらく漆喰で作られたものと思われる。この堂は、犬の守護神に捧げられたものであった。
ケンペルが「大きな白い犬」と記した像は興味深い。伏見稲荷では古くから白狐が稲荷大神の眷属として信仰されており、ケンペルが白狐像を犬と見誤った可能性も考えられる。ただし、一行が北へ向かっていたとすれば伏見稲荷は右手(東側)に位置するのに対し、ケンペルはこの小堂を「左手」と明記している。このため、これを伏見稲荷大社そのものと断定することはできない。
そして京都
1691年2月28日(水曜日)午後6時、我々は京都(Miaco)の宿に到着した。
到着すると、すぐに階段を一階分上がった我々の部屋へ案内された。その部屋を見て私は、ある意味では、ウェストファリア地方の燻製部屋(牛肉やベーコンを燻すための部屋)にたとえることができるように思えた。
訳註:故郷ドイツのウェストファリア地方で牛肉やベーコンを燻製にする部屋になぞらえている。何がそう感じさせたのか具体的には記していないが、木造の部屋の柱や梁などが長年の煙や煤で黒褐色になっていた、あるいは室内に煙で燻されたような雰囲気があった可能性が考えられる。ただし、これは宿を酷評したというより、ケンペルが故郷の生活風景になぞらえたユーモラスな表現と思われる。
この日、我々は非常に肥沃な土地を旅してきた。その大部分は水田であった。水田では野生の鴨の大群を目にした。もっとも、果たして「野生」と呼ぶに値するのか疑わしいほど人に慣れており、旅人の一団が近づいても、驚いて飛び去ろうとはしなかった。
また、湿地になった田では、何羽もの大きな白いサギや、数羽のハクチョウ、そしてわずかながらコウノトリが餌を探しているのも目にした。
さらに、農民たちが黒い牛を使って田畑を耕しているのを見た。その牛たちは痩せて貧弱な家畜のように見えたが、実際には非常によく働く牛だということであった。
京都での諸手続き(Proceedings at Miaco)
京都(Miaco)に到着するとすぐに、我々の通詞たちは、最高司法官(Lord Chief Justice)松平因幡守(Matsandairo Inata Cami)の屋敷へ赴いた。本人はその時不在であった。
ケンペルが “Lord Chief Justice Matsandairo Inata Cami” と記した人物は、松平因幡守信興(まつだいら・のぶおき、1630–1691)で、当時の実際の役職は 京都所司代 である。「最高司法官」はケンペルの英語表現を直訳したもので、日本の正式官職としては「京都所司代」とするのが適切である。文末の記事を参照。
また、京都の二人の町奉行、小出淡路守守秀(Ojude Awa Cami)と前田安芸守直勝(Majoda Akono Cami)の屋敷にも赴き、我々がこの町に到着したことを知らせるとともに、恒例の贈り物を受け取っていただきたい旨を申し入れた。
訳注:ケンペルが “Ojude Awa Cami” と記した人物は小出淡路守守秀、“Majoda Akono Cami” は前田安芸守直勝と考えられる。両名は元禄3年(1690)正月から元禄5年(1692)4月まで、京都の東西町奉行を務めていた。
2月29日(木曜日)
早朝、我々は、先に述べた京都所司代と京都の二人の町奉行に贈る品々を、それぞれの屋敷へ届けさせた。
贈り物は、この国の習慣に従い、樅(もみ)の木で作られた専用の小さな台の上に一つ一つ載せて並べた。この台は、ほかの用途には使われず、もっぱらこのような贈答のためだけに用いられるものであった。
訳註:単なる「小テーブル」ではなく、日本の正式な贈答で品物を載せる白木の三方・折敷などの類をケンペルが西洋人の目で tables と表現した可能性がある。
我々もその後を追い、午前10時ごろ、駕籠(Cangos)に乗って彼らの屋敷へ向かった。
これらの屋敷は町の西側にあり、世襲の宗教的皇帝、すなわち天皇の御所に対する側に位置していた。
訳注:ここでいう「これらの屋敷」とは、京都所司代と二人の京都町奉行の屋敷を指す。ただし、京都所司代屋敷は実際には二条城のすぐ北側にあり、京都御所と直接向かい合っていたわけではない。京都町奉行所も二条城の南東および西側に置かれていた。したがって、ケンペルの “opposite to” は厳密な「真正面」という意味ではなく、京都の市街地を大きく捉えた位置関係の説明と考えるべきであろう。
儀礼的な面会
京都所司代の屋敷まであと50歩ほどのところまで来ると、駕籠から降りるよう命じられた。高い身分に敬意を表するため、そこから先は徒歩で進まなければならなかったのである。
さらに、最初の警備が置かれている門のところで待つよう命じられ、我々が到着した旨が屋敷内に伝えられるのを待った。
それが済むと、我々は幅20歩ほどの中庭を通り、屋敷の広間、あるいは前室へと案内された。そこは Ban、すなわち「主要な番所」と呼ばれ、多くの書記、監察役、屋敷の役人たちが集まる場所であった。
そこには、所司代に仕える役人や従者20人が一列に座っていた。そこからさらに二つの部屋を通り抜け、三つ目の部屋へ案内され、そこで座るよう勧められた。
ほどなくして、所司代の屋敷を取り仕切る年配の役人が入ってきた。60歳を超えているように見える老紳士であった。
彼は灰色、あるいは灰白色の礼装用の衣服(honour gown)を身につけており、我々からおよそ4歩離れたところに座った。そして主人である所司代に代わって、我々の挨拶と贈り物の双方を受け取った。
贈り物は同じ部屋の中に、しかるべき作法に従って整然と並べられていた。その内容は、Tent(赤葡萄酒)一瓶のほか、外国製の絹織物、毛織物、麻布など20点であった。

訳註:ご参考まで。写真は2010年にドイツ沿岸沖の海底調査が行われた際、難破船の中から発見されたワイン。調査によれば、1670年から1690年の間につくられたものだと推測され、世界最古のワインボトルとも言われている。(出典:https://www.esquire.com/jp/news/a30699175/17th-century-wine-discovered-shipwrecked/)ケンペルたちが献上したワインもこのようなものだったかもしれない。
その年配の役人は、我々の贈り物に対してたいへん丁重に礼を述べた。
すると我々の前に、煙草を入れた箱、煙管、それに喫煙に必要な道具一式が置かれた。そして使用人が、一人一人に茶を一碗ずつ運んできた。これは三度にわたって供され、そのたびにその年配の役人や、その場にいた主だった者たちが、我々に飲むよう勧めた。
こうしておよそ15分ほど滞在した後、我々は暇を告げた。
すると、その年配の役人自らがこの部屋の戸口まで我々を見送り、そこから先は別の役人たちに付き添われて、門まで戻った。
京都所司代とは

ウィキペディア「京都所司代」より
江戸時代に江戸幕府により設置された京都所司代は、京都の治安維持の任務にあたった幕府の部署である。鎌倉幕府におかれた六波羅探題や室町幕府におかれた所司代(侍所麾下、京都の治安担当)にならって設置された。
所司代は3万石以上の譜代大名から任命、役料1万石が給され与力30騎(後50騎)同心100人が付属。京都の統治、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視、五畿内及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政を総括した。特に初期は徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の歴代将軍が度々上洛し所司代体制と将軍上洛の不可分の関係がみられた。
所司代の役所や住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されなかった。また、支配下の京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになった。
元禄元年(1688年)に、京都支配など民政上の権限を京都町奉行に譲った。(ケンペル一行による江戸参府の2年前)

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