アイキャッチ画像はWikipediaの記事から public domain のポートレイトを転写したもの。
通訳士の国家試験が終わり、9月25日の結果発表までの期間は、日本史と地理の受験勉強は小休止としていますが、それでも日本の史実への興味は尽きず、特に外国人が日本に滞在して書き残した多くの書籍を読むことに無類の感動を覚えるようになりました。
英文で公表され著作権が切れて public domain となっている外国人が体験した日本史の記録から、筆者が特に価値が高いと感じる内容を紹介します。今回の投稿では江戸時代に長崎の出島にオランダ東インド会社の商館医として滞在したドイツ人のケンペルを深掘りしました。
私の知る限り(間違っていたらぜひお知らせください)日本での体験記を克明に記録した外国人の書籍でもっとも古いものは宣教師のルイス・フロイスとケンペルであり、フロイスの著書がほとんど散逸して失われている反面、ケンペルの『日本誌』はしっかりまとまった形で英訳されています。ケンペルの書は少し難解なため、学術的な研究対象としては非常に有名ですが、一般の読書対象としては、今ひとつ知られていませんので、今回は難解な部分を紐解いてわかりやすい日本語にしてみました。
ケンペルについて
エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651 – 1716)は、ドイツ出身の医師・博物学者である。1690年(元禄3年)にオランダ東インド会社の商館医(船医)として長崎・出島に赴任、約2年間日本に滞在した。その間、オランダ商館長による「江戸参府」に2度同行し、将軍・徳川綱吉に謁見している。滞在中、オランダ語通訳・今村 英生(通称:今村源右衛門、1671 – 1736)の協力を得て精力的に資料を収集した。
日本を初めて体系的に記述した『日本誌』は、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパにおける日本知識の最大の情報源となり、のちに日本を訪れるシーボルトなど後続の学者や旅行者たちに絶大な影響を与えた。長崎の出島の三学者(ケンペル、ツュンベリー、シーボルト)の一人。
ケンペルが訪日した時代は「明暦の大火」から三十数年を経た江戸時代の元禄文化初期。徳川綱吉は1685年に「生類憐れみの令」を発布。1690年(元禄3年)に湯島聖堂を建立している。綱吉将軍の絶頂期といえる。ケンペル訪日時の年齢は39-40歳、通訳の今村は19-20歳である。
ケンペルの『日本誌』を英語に翻訳、編集して1727年にロンドンで出版したのはスイス生まれの博物学者、医師、日本研究家であるヨハン・カスパー・ショイヒツァー(Johann Caspar Scheuchzer FRS、別名 John Gasper Scheuchzer、1702 – 1729 )で、当時ショイヒツァーは25歳、ケンペルは既に他界していた。
この投稿で引用する『日本誌』の一部は、ケンペル40歳前半、ショイヒツァーが20歳前半の仕事であり、綴られている文章には(当事者の若さ故に)ある程度の誤認や誤訳が含まれているが、文章量と情報量は膨大であり、慎重に解釈すれば日本史の裏付けとしての資料価値は非常に高いと言える。筆者は、ケンペルの文章並びにショイヒツァーの英訳文に見られる国、天皇、宮廷、将軍、江戸城あたりの語彙の欠如や混乱について、(1) 英文の名詞・固有名詞をそのままに、(2) 語彙の直後にカッコ付きで日本語の解釈を付記する方法で訳出した。作業は全般的に生成AIを利用し、言い回しが望ましくない部分を筆者が添削した結果である。訳出した文章は、 かなり冗長な表現を含むが、あえて文章を削ることはせずに、できる限り原文の通りとしてある。少し読みづらいことを予めお詫びしたい。
『日本誌』第1章の冒頭
Chapter 1 : Preparations for our journey, manner of traveling in this Country (江戸参内の準備、しきたりなど)
江戸時代の政治体制の基礎を築いた最初の Secular Monarch(民生君主)である Yoritomo(源頼朝)の時代以来、直轄地に属する Imperial Cities (京都・奈良等の五畿)の Governors (宮廷)や Provinces(七道)、Lands、Demesnes(諸藩・領地)の Lords Lieutenants(国司)だけでなく、ここで大名や 小名と呼ばれる他のあらゆる者たち、すなわちこの広大な帝国全土のあらゆる階級や格の主君に至るまで、1年に1度は参内 (go to court) して敬意を表すことが慣習として守られてきた。自らの権力と領地の広大さから King (大名)やその世継ぎに十分になぞらえ得る上位階級の君主は Emperor (将軍)自身へ、それ以外の者は評議会に集まった Prime Ministers (老中・大目付)に対して敬意を表する。両者とも、自らの格や富に見合った贈り物を添えて敬意を表すが、これは Emperor (将軍)の至高権を認める証として行われるものである。
オランダ人集団が日本に定住するようになった際も、かつてポルトガル人がそうであったように、この日本の古代からの慣習に従っていたのである。
訳註:1600年代の外国人の著作では、日本の「天皇」と江戸の「将軍」の区別が曖昧であるが、この文章では源頼朝以降、神道の神からの世襲ではなく、民生の君主を Emperor としている。つまり、幕末から明治にかけて、Shogunate や Shogun と呼ばれた徳川将軍はケンペルの著作では Emperor と綴られていたようである。朝廷の説明については後述する。また、年に一度の参内は明らかに参勤交代を意図しているが、その参勤交代についてケンペルが当時の「武家諸法度」を詳細まで熟知していたわけではないようだ。
江戸参内に参加する人々
(ここに記録するのは)我が「東インド会社」の Resident(常駐代表)であり、当時の貿易の最高責任者である人物が、医師または外科医1名、Secretaries(書記官)1〜2名と共にこの Journey(江戸への参内)を行うものである。そして、これに同行するのが、この国(長崎)における我々の Magistrates(目付役)であり Governors of Nagasaki(長崎奉行)であり、我々は長崎奉行の指示や命令に従わなければならない。他の同行者は長崎奉行によって任命された様々な階級からなる多数の日本人集団である。彼らは、この帝国の Supreme Majesty(最高権威者=幕府)に謁見しようとする集団として、我々(上記の東インド会社の代表)を優遇し護衛するために同行するのであるが、実際には主として我々を監視・警戒し、我々の行動に厳しい目を光らせ、我々が現地の人々と疑わしく不法な会話や通信を行わないようにするため、また、キリスト教に関連する十字架、聖像、聖遺物、その他のものを彼らに密かに渡したり、他の欧州産の rarities(希少品)を贈ったり、あるいはそれらについて密かに一般人に語ったりするのを防ぐため、そして特に、我々の誰一人としてこの国奥深くへ逃げ込み、そこでキリスト教の信仰を復活・布教しようと試みたり、さもなければ現在この帝国に確立されている安寧を害するような騒ぎや混乱を引き起こしたりすることのないよう注意を払うために同行するのである。

訳註:ケンペルが1691年と1692年に江戸城で5代将軍・徳川綱吉に謁見した際、長崎奉行であった川口宗恒(かわぐち むねつね、1630 – 1704、ケンペルの書籍では “Sino Cami” )はオランダ商館一行の先導役や、将軍との橋渡し役を司った。1691年当時の宗恒は61歳であり、当時の日本では高齢者であった。挿絵はケンペル自身が描いたと伝えられる江戸参内の行列である。細かな部分まで実に精緻にスケッチされている。
日本側のメンバー全員がオランダ商館長一行の「監視役」というのは少し誇張がありそうだ。元々の武家諸法度は、諸藩の大名の参勤交代を強制して私財を消費させることで、諸大名の中から反幕に走る勢力が蔓延ることを抑制したのであり、参勤交代と言わずとも、江戸幕府に参内する場合のしきたりにより多くの家来を動員せざるおえなかったはずである。いずれにせよ、ケンペル一行がかなりの緊張感の中で江戸へ旅したという雰囲気が文章に表れている。
厳しい監視体制
我々の Journey(江戸参内)の日本人同行者たちには、重要な任務が課せられている。(読者は容易に想像できるであろうが)選ばれているのは高潔かつ忠実さで知られた人物や、我々の交易の視察・規制に関連する日常業務に従事している者たち、そして長崎奉行自身の使用人(家臣)の一部に限られるのである。彼らの忠実さや誠実さが繰り返し証明されていても、奉行がその実績だけに依拠することは決してない。即ち、同行するすべての者たちは、指導者層から最も身分の低い奉公人に至るまで、オランダ人または自国の同胞について観察する義務を負うのだが、出発する前の誓約として、国内の法律や多数の特別な指示に反する行為を目にしたなら、その内容を長崎奉行所に報告することを、自らの血判をもって署名させられる。これほど厳粛かつ恐ろしい誓約が義務付けられるのである。唯一の例外として、頻繁に入れ替わって馬の世話をする人員は血判書の提出義務を負わない。
ケンペルのジャーナルが貴重なのは、この記録が1600年の末であり、厳しい戦国時代から武家諸法度による武断政治の名残が完全に消えていない徳川綱吉の時代のものであることである。幕末になると、さまざまな書籍が史実を伝えているが、この1691年と92年の外国人の日本に関する報告は非常に少ない。フロイスの資料も日本に詳しいが、残念ながら現存するのは断片的な文化比較であり、ケンペルのように物語りとして小説を読むように元禄を読み解ける資料は他に無い。
オランダ商館長
私自身、二度にわたって Emperor(将軍)の宮廷(居城)へと赴いたが、それは私にとって極めて満足のゆくものであった。最初は1691年で、Henry von Butenheim(誠実さと親しみやすさ、寛大さを備え日本の慣習や言語に精通していた人物)に同行した。彼はその優れた振る舞いによって、主君の利益を損なうことなく、その名声を守る術を知っていた。2度目は1692年で、Batavia(バタヴィア、オランダ占領下のジャカルタ市)のオランダ植民地総督の兄弟である Cornelius van Outhoorn に同行した。彼は深い学識と優れた良識を持ち、複数の言語に長けた人物で、生まれ持った親しみやすさによって、誇り高く猜疑心の強い日本人集団の情緒に入り込む糸口を見出し、また自らの能力の限り主君の利益を促進し、母国の派遣元の者たちと派遣された先の相手の双方に完全な満足を与える形で、職務上のあらゆる責任を果たした。
私はここで、ジャーナル(日記)の形式をとって、これら2度の旅において私の身に起こった注目すべき出来事の詳細な記録を記述することとする。ただしその前に、ジャーナル自体の記述内容をより容易に理解できるようにするために必要と思われるいくつかの一般的な観察を、私にできる限りのあらゆる誠実さをもって、あらかじめ提示しておくこととしたい。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
続きは次回の投稿で紹介します。

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