ケンペルの『日本誌』には、江戸時代の日本庶民がいかにして陸上の大動脈である五街道などを清潔に保っていたかはっきり記録されています。道端に馬の糞が散乱していなかった日本の道は、何も無駄にしない日本古来の文化が支えていたのです。ただし、肥溜めだけはドイツ人からは不評だったようです。失礼!
お詫びと訂正 これまで「江戸参内(えどさんだい)」としていたケンペルの旅ですが、ここで修正があります。この「参内」というのは表敬先が日本の「天皇」である場合の表現であることが判明しました。しかし、ケンペルの旅は江戸幕府への表敬が目的です。したがって、正しい表現は「江戸参府」となります。恐縮ですが、これまでの記事の「江戸参内」は「江戸参府」と読み替えていただきたくお願い致します。本編を「案内士の道」の付属記事にしてきた筆者としては全くお恥ずかしい限りです。
今回のケンペルの情報は「長崎から将軍の居所である江戸までの、水路および陸路の概説」である。今回の内容はケンペルの『日本誌』の引用をそっくり紹介するだけで、当時の日本の様子や歴史資料としての価値が充分伝わってくる。そこで、今回は筆者の注釈や訳註は最小限に留め、すでに public domain となっているケンペルの文章そのものを投稿することにした。
まえおき(『日本誌』より)
何世紀も昔、日本国は七つの大きな地域に分けられた。このことについては、別の章で日本の地理を概説した際に詳しく述べた。
旅行を容易かつ便利にするため、これら七つの地域にはそれぞれ一本のhighway(街道)が通じている。その後、時代が下るにつれて各地域はさらにいくつもの地方(Province)に分割されたため、それぞれの地方へ出入りする道が設けられ、それらは小さな川が大河へ流れ込むように、すべて大きな街道へと合流している。
これらの道は、その道が通じている地域あるいは地方の名を取って呼ばれている。このことについては、別のところでさらに述べる。(訳註:五街道や七道のことを書いている)
これらの街道は非常に広く、大人数の二つのcompany(集団)が出会っても、互いに妨げられることなく容易にすれ違うことができるほどである。
この場合、彼らの言い方で「上る」、すなわちMiaco(京都)へ向かう集団は道の左側を通り、Miaco(京都)から来る集団は右側を通る。
すべての街道には、旅人の案内と便宜のため、一定の距離ごとに測られた里程が設けられている。その起点となっているのが、すべての街道の共通の中心であるJedo(江戸)の大橋である。この橋は特にNiponbas(日本橋)、すなわち「日本の橋」と呼ばれている。
この仕組みによって、旅人は日本国内のどこにいても、そこから将軍の居所であるJedo(江戸)まで何里あるかを知ることができるのだ。
一里(japanese mile)ごとの地点には、道の両側に向かい合うように二つの小さな塚が築かれ、その頂には一本または数本の木が植えられている。(訳註:一里塚のことと思われる)
それぞれの地域、地方、あるいはさらに小さな区域の境界には、街道上に木製または石製の標柱が立てられている。
そこには文字が記され、どの地方あるいは領地とどの地方あるいは領地がそこで境を接しているのか、またそれぞれが誰の領地であるのかが示されている。
同じような標柱は、大きな街道から分岐する脇道の入口にも立てられている。そこにも文字が記され、その道がどの地方または領地へ通じているのか、また次の主要な場所まで何里あるのかが示されている。
訳註:以上はケンペルが体験した江戸時代前期の日本の地理の基礎知識である。これ以降が東インド会社の江戸参府の工程説明である。
江戸参府:3つの行程(『日本誌』より)
われわれの江戸参府の旅では、これら主要街道のうち二つを通り、その二つの街道の間を水路で移動した。そのため、旅程全体は三つの部分に分けられる。
第一に、Nagasaki(長崎)を出発し、Kiusju(九州)を陸路で横断してKokura(小倉)へ向かう。小倉には五日で到着する。
小倉からは小舟に乗って海峡を渡り、約二里離れたSimonoseki(下関)へ行く。そこには先に述べたわれわれの船が錨を下ろして到着を待っている。この港は非常に便利で安全である。
長崎から小倉までの道は、日本人が Saikaido(西海道) と呼ぶもので、「西方の土地へ通じる道」というほどの意味である。
Simonoseki(下関)でわれわれは船に乗り、そこからOsacca(大阪)へ向かう。風が順風か逆風かによって多少異なるが、およそ八日で到着する。
ときには、大阪港は水深が浅く、停泊にも安全とはいえないため、われわれの船ではFiogo(兵庫)までしか行かないこともある。
Osacca(大阪)は、その商業の広がりと住民の富裕さで非常に有名な都市である。大阪はFiogo(兵庫)から水路でおよそ十三里のところにあり、この区間は小舟で移動する。大きな船は兵庫に残り、われわれが帰ってくるのを待つのだ。
大阪からは再び陸路となり、大きな島Nipon(日本、本州)の本土を横断して、将軍の居所であるJedo(江戸)まで行く。到着までにはおよそ十四日、あるいはそれ以上を要する。
大阪から江戸までの道を、日本人は Tookaido(東海道) と呼ぶ。すなわち「海、あるいは海岸沿いの道」という意味である。

われわれは江戸に二十日ほど、あるいはそれ以上滞在する。そして将軍閣下に拝謁し、その重臣や特に寵愛を受けている有力者たちにも挨拶を済ませると、同じ道を通って長崎へ戻る。
こうして旅の全行程には、およそ三か月を要する。
全行程の距離(『日本誌』より)
長崎から江戸までの旅は、長さの異なる日本の里で数えて、少なくとも323里ある。
長崎から小倉までは53.5里、小倉から大阪までは少なくとも136里、最大では146里、大阪から江戸までは133里13町と計算されている。
したがって全行程は、少なくとも323里、最大で333里となり、これはおよそ200ドイツ・マイル(german miles)に相当すると考えられる。
日本の「里」の長さと区分
日本の里(leagues, or miles)は、すべて同じ長さではない。
Kiusiu(九州)およびIsje(伊勢)の陸路で用いられる里は、1里がそれぞれ50町である。それ以外で一般に用いられる里は、1里36町である。Tsjo(町)とは、街路の長さを測る単位である。
良い道を実際に進んでみたところ、前者の長い1里は馬でたっぷり1時間ほど、後者の短い1里は45分ほどであった。
1町は、彼らの測り方では60 間からなり、これはヨーロッパのfathom(ファゾム)約60に相当する。したがって、長い1里は3,000間、短い1里は2,160間となる。
水路で用いられる里についていえば、日本国外の海上では2里半を1ドイツ・マイルとしている。しかし彼ら自身がいう「国内」、すなわち日本の島々の間やその周辺では、海岸線に沿った航路によって距離を測っており、まったく一定していない。
そのため、水路の里が陸路の里、あるいはドイツ・マイルとどのような比率になっているのか、私には正確に判断することができなかった。ただ一般的にいえば、水路の1里は陸路の1里より短いことが分かった。
江戸時代の街道(『日本誌』より)
Saikaido(西海道)の大部分、そしてTokaido(東海道)のほぼ全域では、町や村の間を通る街道の両側に、松の木がまっすぐ一列に植えられている。その心地よい木陰のおかげで、旅は快適で便利なものとなっている。
路面は常に清潔に整えられ、雨水を低い土地へ流すため、適切な側溝や排水路が設けられている。また、高い土地から流れ落ちてくる水を防ぐため、丈夫な堤も築かれている。
このため、雨が降って路面がぬかるんでいるときを除けば、街道はいつでも良好で快適な状態に保たれている。

近隣の村々は共同で街道を補修し、毎日、掃き清めてきれいにしておかなければならない。
高い身分の者が旅をするときには、その一行が通過する直前に、箒で街道を掃き清めさせる。
また適当な間隔ごとに砂の山が用意されている。これは数日前からそこへ運んでおくもので、高貴な旅人が到着する際に雨が降った場合、道に撒いて乾かすために利用される。
各地方の領主や、将軍家の一族に属する高貴な人々が旅をするときには、二、三里ごとに、緑の葉の付いた枝で作った仮小屋が用意されている。そこには人目を避けられる一室が設けられており、休息その他の必要が生じたときに立ち寄ることができる。
街道の補修を監督する者たちは、道を清掃する人間を集めるのにそれほど苦労しない。というのも、街道を汚すものは何であれ、近隣の農民たちにとって何らかの役に立つからであり、むしろ誰が最初にそれを持ち去るかを競うほどである。
松の木から日々落ちる松かさ、枝、葉は拾い集められ、燃料として利用される。木材が非常に不足している地域では、これによって薪の不足を補っている。
馬糞も長く道の上に放置されることはなく、すぐに貧しい農村の子供たちによって拾い集められ、畑の肥料として使われる。同じ理由から、旅人の排泄物も無駄にならないよう配慮されている。農家の近くや畑の中には、ところどころに旅人が用を足すための便所が設けられている。
役に立たなくなって捨てられた馬や人間の古い履物も、同じ場所に集められる。それらは排泄物とともに焼いて灰にし、一般的な肥料として畑に施される。
このような、いささか不快な材料を混ぜた肥料は、村や畑に置かれた大きな桶や樽の中に蓄えられている。それらの容器は上端が地面と同じ高さになるよう地中に埋められており、しかも蓋がされていない。
そのため、繊細な嗅覚の持ち主にとっては、農民の一般的な食物である大根にも似た、実に不快で腐敗した臭いを辺りに漂わせている。それはちょうど、この街道の整然とした美しさが目を楽しませるのとは、まったく対照的なのである。
訳註: 原文では松の木をpine treeでなく “firrs” と綴っている。このfirは、場合によっては「モミの木」を意味する単語だが、全て「松」として翻訳しました。東海道の並木は実際に松が主体で、現存する旧東海道の松並木についても江戸時代からのものと確認されてる。北斎の「東海道保土ヶ谷」にも街道沿いの松並木が描かれている。箱根では地質・気候の関係から杉が植えられたという地域差がある。したがって、この箇所を「モミ並木」と訳す方が史実上の実態から外れる可能性が高い。
訳註: 距離については、ケンペル自身が「1里には36町のものと50町のものがある」「水路の里は一定しない」と警告している。この章に出てくる「323里」を現代の 1里=約3.93kmで単純に換算すると矛盾が生じる。むしろ、この章そのものが「元禄期の距離単位がケンペルにとってかなり理解しにくかったことを示す興味深い史料」なのである。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
次回も興味深い内容をアップします。ご期待ください。

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