これは伝承である。
ひとたび、この伝承を理解すれば、人の「生き方」に関する、あらゆる種類の問題解決の糸口が見つかる。個人的にも「生きやすい」人生を実感できるようになる。宗教色はないし、特殊なイデオロギーも含まれない。教育機関では教えていないのだが、この伝承は、人間としてごく自然な生き方の知識と修練なのである。
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具体的な訓練法
トレが推奨する訓練は、彼の著書、”Power of Now” の中で詳しく紹介されている。
この書籍は、欧米ではベストセラーを記録しているから、トレの訓練を実践している人々は世界中に数えきれないほど居るはずだ。
欧米の著名人で Power of Now を絶賛した人としては、米国のオプラ・ウィンフリーがよく知られている。彼女はこの本を、自宅のあちらこちらに置いて、少しでも時間があれば、読み直すことにしているほど、この書籍に心酔しているそうである。
トレは、訓練の呼び名として、ごく単純に “watching the thinker”(考えている主客を見つめる)といったフラットな表現を使う。⚪️⚪️セラピーであるとか XX法といった名称は無い。
この訓練法について、トレの書籍から最も核心的で具体的な部分を抜粋しよう。
トレは以下の文章に至る以前に、かなりのページを割いて「人間の頭脳活動の無意味な反復」であるとか、既にこの文章で紹介した人間脳の「暴走」の問題を説明していることを前置きしておく。
以下はトレの原文(英語)を筆者が翻訳したものである。(翻訳したのは2018年であり、生成AIは全く利用していない。)
医師に「頭の中で誰かの声がする」と訴える人がいます。誰かがこういうことを言うなら、直ぐに精神科医を紹介するのが正しい人助けかもしれません。
然し乍ら、実際のところ、殆ど全ての人は常に頭の中で人の声(或いは複数の声)を聞き続けています。ときには独り言、ときにはダイアログ(複数の声のかけ合い)が聞こえています。これら「招かれざる声」は何となれば自分で止めることが出来るのですが、私たちはその方法を知りません。
道ばたに座り込んで絶え間なく独り言を話している人を見かけますが、実のところ私たちも(声にこそ出しませんが)同じように自問自答を繰り返していたりします。
頭の中の声は評論したり、推論したり、裁いたり、比較したり、苦情を言ったり、好んだり、嫌ったりします。その内容は必ずしも今現在の事象を反映するわけではなく、昨日や、遠い過去の事であったり、また近未来のリハーサルであったりします。
近未来については、事故を頭に描いたり、好ましからぬ結果をイメージしてしまいます。いわゆる「心配」です。これらの独り言はいわば頭の中のサウンド・トラックですが、ときに映像や動画も伴います。
頭の中の声が目の前の困難に関係しているのに、その解釈は「過去」がモノサシになったりします。
何故なら、頭の中の声(思考)はその人の過去の集大成、そしてその人が住む地域の集団的マインドセットの継承で出来ているからです。
人は「過去」を通して(それを拠り所に)「現在」を見たり評価したりしています。でも、これは全く真実と異なる歪んだ「現在」であり、本当の「現在」ではないのです。
頭の声が「天敵」になっている人も珍しくありません。多くの人がこの「声のイジメ」に悩まされています。
(この場合)人間の頭脳は人が「精魂使い果たす」まで攻撃し、罰します。これこそ悲観と不幸のタネであり病気の素なのです。
そこで、皆さまに私から朗報をお伝えしたい。
私たちは思考機能の呪縛から抜け出すことが出来ます!
これこそ真の自由への唯一の解放、唯一の救いです。そして、誰でも、今、この自由への一歩を踏み出すことが出来るのです。
まず、出来るだけ頻繁に「頭の声」を客観的に「聴く」自分を意識するのです。次に、頭の声の中でも「繰り返し」に注目して下さい。使い古しのアナログレコードのように頭の中で何年も繰り返している声です。
これこそが、「考える自分を客観する」訓練なのです。
(原典では “watching the thinker” と表現している、以後、訳者は 「WTT」と略す。)
WTTは「頭中の声を聴く自分、それを聴く自分の存在を、ある種の立会人として位置づけること」と捉えて下さい。
しかし、声を聴くときに決して偏った聴き方をしないでください。つまり、あなたが「声の主(ぬし)を裁いてはならない」ということです。
「裁く」ということは「考え」そのものですから思考頭脳が作動しています。つまり、頭中の声を客観するはずの高次元の自分が元の(低次元にいる自分の)思考頭脳の支配下に舞い戻ってしまうのです。
修練してくると、やがて頭の中の声とそれを聴く(本当の)自分とが区別出来るようになります。
そして頭の声を聴く自分を客観的に見ている自分がそこに存在する感覚を「自分がいる」と覚える(感じる)とき、あなたはもはや、あなたの肉体の思考機能による呪縛とは無関係の存在となります。
そのときあなたは自分の頭脳を超えているのです。
Power of Now、Chapter 1, What exactly do you mean by “watching the thinker “? より
引用した文章の中には、トレのWTT訓練法から、「痛み虫」の解消まで、全ての答えが包含されている。しかし、かつての筆者を含め、これを初めて読んだ人間は直ぐにトレの説明を理解できるわけではない。
デカルトは「我思う故に我在り」という説明で、人間個人の思考そのものが個人の存在の証明だとしたが、トレは、必ずしも「そうではない」と言うのである。
つまり、人間は、自らの頭脳に翻弄されなくなって初めて「本来の人間」に戻れるというのだ。
ストレス解消という対処法
彼は、人間が自分の頭脳を使うことを否定してはいない。彼が問題視しているのは、人間が、頭脳に翻弄されてしまっている事実だ。人間の配下にある道具でしかない人間の頭脳が、勝手に人間を振り回していることが、「主従逆転」しているというのである。
同じことを別の角度から考えてみよう。
バランス感覚に優れた人々は、「自分を悩ませている事柄」や、「忘れてしまいたいこと」から自分を解放する「ストレス解消」という休息時間を大事にしている。
スポーツに夢中になる時、我々は日常の悩みを忘れている。あらゆる種類のゲームに没頭する場合も同じだ。パソコンの動画サイトやテレビに見入っている時も、人間は「悩みを忘れる」ことができる。ひとりでカラオケボックスに篭って声を出すことで煩悩を忘れる人もいる。
短時間ではあるが、この時は自分という「主人」が頭脳という「使用人」の勝手な振る舞いを制圧して、主人として心理的にベストな状態を保持できている。
これ以外にも、強い効果がある活動として、人同士の真剣勝負であったり、異性とのセックスがある。この場合もやはり「頭の中の」悩みやモヤモヤは、主人を支配することはせず、主人が最も優先する心情がチャンピオンになりきっている。
身体的なリスクを顧みずに、酒や薬物を利用する人間もいる。こちらは、精神疾患や強烈な副作用に蝕まれるリスクと代償に、悩みや煩悩を一時的に(あるいはかなりの長時間)払拭することができる。
このように、人間は「ストレス解消」という方法を持って、実は人間を翻弄している頭脳活動を強制的に制圧できる。
ところが、この方法には限界がある。
いずれの方法も主従転倒の「一時的な」解消であり、恒常的に頭脳支配下の自分を解放する方法ではない。
3つの疑問
トレはこう書いている、
殆ど全ての人は常に頭の中で人の声(ときには複数の声)を聞き続けています。ときには独り言、ときにはダイアログ(複数の声のかけ合い)が聞こえています。これら「招かれざる声」は何となれば自分で止めることが出来るのですが、私たちはその方法を知りません。
Power of Now、Chapter 1, What exactly do you mean by “watching the thinker “? より
トレのWTT訓練は、主従逆転してしまっている人間と人間脳の支配関係を、本来の主従整然とした支配構造に戻す訓練なのである。
さて、トレの訓練法は、
- 出来るだけ頻繁に「頭の声」を客観的に「聴く」自分を意識する
- 頭の声の中の思考の「繰り返し」に注目する
- こうして、「考える自分を客観する」訓練を続ける
- 自分の存在を、ある種の立会人として位置づける
- 声の主(ぬし)を裁いてはならない、ただ客観すべく見つめる
である。
筆者が、この訓練を体得する上で、障害となった疑問点は、
- 自分の思考活動を客観視する「もうひとりの自分」を意識するとは?
- 頭の中の声の主を絶対に「裁かない・評価しない」ということは?
- 正常な思考活動と、誤動作や暴走した思考活動との正しい区別は?
の3つである。
WTTは「頭中の声を聴く自分、それを聴く自分の存在を、ある種の立会人として位置づけること」だという。
漠然と客観視というが、そう簡単ではない。
ただし、前述の「主従転倒」の状態がはっきりしているなら、本来の主人である自分が、暴走気味の頭脳を捉えて客観視することは出来そうだ。
人間脳を客観視する方法
トレは、1日24時間続けて自分の考えを客観視せよとは言っていない。捉えるべき異常な脳の活動だけを補足するのだ。そしてこれらは、例えば、頭の中で日々繰り返している意味のないメッセージ(くよくよしている自分)であったり、また、前述した赤子の鳴き声で「イラっと」する自分の頭脳と感情である。他にも例示できることはいくらでもある。
トレはこの点、Power of Now の中で、何度も「油断せずに、警戒を続けよ」と書いている。つまり、油断していると、主人が客観視していない状態で、人間脳は勝手にイライラし初めて、本来の人間の本質から離れた感情や行動を駆り立てるというのだ。
確かに、トレの教えを聞かずとも、人間は「出来心」だとか、「知らないうちに洗脳された」だとか「何かに憑依された」といった経験を吐露することが多い。
これが人間脳の「暴走」なのである。憑依でも洗脳でも無いのだ。
頭脳は、主人が油断していると、あらゆる機会を利用して暴走気味に活動する。だから油断大敵だというのである。
筆者は、上記の3つの疑問のうち、ひとつめは、あまり難しく考えず、「主従転倒」が始まりそうな瞬間を逃さない日々の訓練を続けることに徹した。この方法は次第に習慣化してきた。
人間脳を「裁かない」方法
2つめの疑問は、難関であった。
頭の中で煩悩を繰り返し思考するのを客観するとき、その考えの「良し悪し」や「清濁」を吟味したり評価したりするなというのである。ただ静観するのだ。
そのような作法は、筆者の人生経験には無かった。そもそも、人は、自分の考えを含め、森羅万象の良し悪しや清濁を評価した上で、次の行動を決めて生きている。
そのことが日常になっている人間にとって、自分の頭の中にある声をただ静観するという作法は何とも受け入れ難い。筆者の場合、この静観術を実践できるようになるまでに、数年間の訓練を要した。
しかし、やがて突破する糸口が見えてきた。ヒントになったのは、やはりトレの著書にある説明だった。
トレ曰く、人は自分の頭脳の働きを「自分そのもの」と確信して生きているが、それは違うというのだ。
例えば、田中さんという人がいて、その田中さんの頭にある頭脳は、ひとつの頭脳として働いてはいるが、実は本当の田中さんでは無く、ある種の「考える生き物」だというわけだ。
この説明には、誰でも少なからず違和感を感じるはずだ。
考えている自分はもはや自分ではないのか?(デカルト:「我想う故に我あり」は嘘?)
この疑問がうまく解決できないと、何をしているのか全くわからなくなってしまう。
トレ曰く、我々の一般常識の中に、人間脳と人間の本質が「主従転倒」してしまう元凶が隠れているという。彼の著作がベストセラーになった所以である。
トレの説明はこうだ
人間の脳は非常に優れた機能を持っている。その機能の中には、生存本能や、自己防衛本能も備わっていて、自分の主人である人間はさておき、頭脳として出来る限りの方法を繰り返し検討して自分自身(いや自脳自身)を保護すべく努力している。
そして、人間の頭脳にとって、最も好ましからざる事態は、自分自身の死滅である。つまり、脳が存在意義を失い、もはや人間の脳として活躍できなくなることを最も恐れるのだ。
脳は脳以外に肉体を持たず、手も足も目も耳も無い。だから、人間の脳は、脳以外の人間の全ての要素から切り離されてしまうことを極端に恐れる。そのようなことになれば、もはや脳が自分の存在意義を確保するために主人である人間と意思疎通することが出来なくなる。主人である人間から無視されることは脳にとっては「死」を意味するのだ。
したがって、頭脳が頭脳として存続するために最も重要な作業は、主人である人間に、注目され続け、何が何でも活用され続けるという命題なのである。
これが「人間脳」の性(さが)なのだ。
だから脳は必死で「思考活動」を継続する。脳の主人である人間が「注目する」事柄なら、何でも構わない。主人が注目して脳を使って思考活動を続けてくれさえすれば、たとえ違法でも、危険でも、人間の注意を引ければ良いのだ。それが出来なければ、人間脳は死んでしまう。
だから、人間脳は、ある程度の生存知識を身につけて青少年から成人になるにつれ、善悪・清濁・強弱を含むあらゆる事柄をデータベースとして大量に記憶する。少しでも主人にネガティブな事象が目の前に発生すれば、嫌いなものリストや危険なものリストを記憶から引き出して「危機が迫っている」と騒ぐのである。
危険から人間を守るのが脳の役割だから、目の前の危険から人間を守るべく働いているうちはそれで結構である。
やがて、人間脳は、賢くなるが故に、余分な仕事を始める。それが、未来のリスクであろうが、過去の痛い経験だろうが、分別なく騒ぐのである。
脳の大騒ぎが度を過ぎると、本来落ち着いて対処すべき時に、人の本質と脳の主従関係が一時的に逆転する。そして脳は暴走し始める。
「出来心」で犯罪を犯す人間の内面には、このような主従逆転が起きていて、後から思い出した主人は、時として、何故自分が犯罪を犯したことを納得出来ない場合がある。
誤動作と暴走を止める極意
さて、トレの訓練の話に戻ろう。
主従転覆までして、人間を翻弄しようとする頭脳の誤動作や暴走を抑える上で、最強の対処方法は何であろうか?(賢明な読者は既にお気づきであろう)
人間脳を制圧する方法。それは人間脳を「相手にしないこと」であり、「考えることを止めること」(脳の不使用)なのだ。
人間脳がいかにエキサイトして、人間を翻弄しようと、同じメッセージを繰り返し叫んだり、イライラする「痛み虫」を記憶から引き出して主人の感情に訴えたとしても、
主人である人間がこれを相手にせず、その内容について考えている頭脳活動を評価したり、考えている内容の正当性を裁くようなことをしなければ、その瞬間に誤動作は止まる。
暴走している脳は、目的を失って電源を落とした機械のように大人しくなるのだ。
これを実行された瞬間、人間脳は、なすすべもない。一時的にでも主人を翻弄しようとした人間脳の「考え」は死滅するのだ。
日本の禅の世界で言えば、これは「無為無想」の境地だ。「無為」とは、何の目的も評価も持たない状態であり、無想は文字通り何も想わないということだ。
参考 オプラ・ウィンフリー
オプラ・ゲイル・ウィンフリー(英語:Oprah Gail Winfrey、1954年1月29日 )は、アメリカ合衆国の女優、テレビ番組の司会者兼プロデューサー、慈善家。
司会を務める番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』はアメリカのトーク番組史上最高の番組であると評価され、多数の賞を受賞している。フォーブスの「アメリカで最も裕福なセレブリティ」にて3位に入った。
成人前の生い立ちにおいて、壮絶な性的虐待を受けてきた来歴を持つが、20世紀以降のアメリカで最も裕福なアフリカ系アメリカ人に成長し、かつては世界唯一の黒人の億万長者であった。また、アメリカの黒人の慈善家であり、「世界で最も有力な女性」と称される。
非常に影響力を持ったテレビ司会者の1人として知られており、紹介した本は必ず大ヒットしたり、「ヒラリー・クリントンの次に女性大統領になる人物」とまで言わしめる。「タイム」誌が世界で最も影響力のある人物の1人として彼女を取り上げている。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
この続きは、「新しい生き方の極意3」を参照ください。
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