人間は長い間、科学技術の進化に尽力し、物質世界の解明を進めてきました。しかし、人や動物の生死、そして人間の霊性の有無や輪廻転生といった根源的な問いについては、古くから多くの経典や伝承で語られていながらも、未だ納得のいく答えは見つかっていません。
このテーマについて、私は40年以上にわたり様々な伝承や研究書に触れ、人々が古くから考えてきた人間の霊格や転生の仕組みについて考察を重ねてきました。
理解できないことに意味がある
そしてたどり着いた一つの結論は、「人の霊性や転生の本質は、私たち現世の人間には理解できない」ということにこそ意味がある、ということです。
どういうことかというと、人間は霊性の存在やその本質を完全に知り得ないからこそ成長してきた、という考えです。もしその答えに辿り着いたとしたら、この世の仕組みや人間の生き方は劇的に変化するでしょう。今の人間や地球上の文明のレベルでは、霊性や霊格について理解できないのは当然であり、むしろ理解できない人生を「正しい生き方」として受け入れ、全うすることに意味があるのではないか、と考えるようになりました。
死後の世界への思い
私自身、もし人生の終わりに転生がなく、霊性も存在しないのであれば、それはそれで無限の幸福を感じるでしょう。この人間界の苦しみを二度と味わう義務がなくなることへの喜びです。それほど、この現世を生きることは時に辛いと感じます。

もし輪廻転生があり、自分の功罪や精進が未完成で、残されたノルマを果たすために再び人間界に転生することになったとしたら、それもまた、苦しい人生かもしれませんし、あるいは誰よりも恵まれた至福の生涯になるかもしれません。しかし、人生とはほぼ例外なく苦しみと喜びの繰り返しであり、常に苦心ばかりがあるわけではなく、また常に幸福であるわけでもありません。
涅槃への憧れ
現世での生涯が終われば全てが無に帰し、その先に何も無いというのは、まるで仏教で説かれる「涅槃(ねはん)」そのものだと感じるようになりました。そうであれば、辿り着くのはむずかしそうです。

生涯の終わりに何も無いことを願うのは、人生の愚かさと恐怖を味わった人間が、二度と人間界の経験を繰り返したくないという願望なのでしょうか。それとも、人間界の喜怒哀楽、修羅、地獄といった本質を見抜き、その先の霊性の使命に目覚めた魂がたどり着く場所なのでしょうか。
私は、霊性について「どうせ理解できない」と決めつけて何も学ぼうとしない人生よりも、人間が知り得る限りの知能と活動を使って、人間としての本質である霊性を探求し、自身の内なる声と対話することを強く勧めたいです。
人間が知りうる全ての霊的知識を身につけていれば、自分の死後、そこに何かがあっても、あるいは何もなくとも、一片の恐れも心配も必要なくなるはずです。そうすることで、人間界には何の執着も残らず、安らかで幸福な人生の最期を迎えることができるのではないでしょうか。
筆者は今も人の霊性を学ぶことを続けています。しかし、筆者は人の霊性を完全に理解しようとは思いません。理解できないことに抵抗せずに学ぶだけなのです。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
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